結婚の条件として相手の男性に謎解きを要求し、答えられなければその男の命を奪うという残忍なトゥーランドット姫の物語は、謎かけ姫物語の代表的なものとしてよく知られている。 先にこの物語の今世紀までの変遷について考察したが (1)、まだその時点では、トゥーランドット物語の起源をはっきり断定する上での資料は不足していた。 その後、この物語の起源を探る上で重要な文献を、いろいろ入手することができたので(『千一日物語』は、1843年の新版をパリの古書店で入手)、新たに判明した事実をもとに、物語の起源に話を絞って、改めて考察したいと思う。
T 謎かけ姫物語の多様性
トゥーランドットの物語の起源については、この題材をもとに書かれたプッチーニの有名なオペラに関する文献の中でもよく言及されている。 しかし、日本やアメリカで出版されたものでは、ゴッツィの同名の劇を原作とするとの指摘がなされるだけで、それ以前の物語の背景についてはまったく触れられていない (2)。 あるいは触れられていれも、カーナの不正確な記述をそのまま踏襲して、『千一夜物語』に由来するなどといった漠然とした説明がなされているだけである (3)。
ところが、フランスの L’Avant-Scène Opéra の名作オペラ・シリーズの1冊として出版された『トゥーランドット』の巻頭に掲載された ”La légende de la Princesse cruelle, des origines à Puccini”(残忍な王女の伝説、プッチーニの起源)と題する論文、及び、近年出版された ”L’enigmatique Turandot de Puccini”(プッチーニの謎に満ちたトゥーランドット)と題する研究書において、オバニアクは物語の背景について詳細に論じている。 このフランスのオバニアクの研究が、現在のところ、トゥーランドットの起源に関しては、もっとも示唆に富むように思われる。 すなわち、トゥーランドット物語の本来の起源は、ゴッツィの劇作品ではなく、ゴッツィより50年前に出版されたペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」であるという。 ただし、ペティ以前から、似たような物語がいくつか存在しており、まずそれらについての言及から話を切り出している。
まず『千一夜物語』の中から、この物語を素材とする作品が2つ紹介される。 どちらもマルドリュス版に含まれているもので、844夜からの「九十九の晒首の下での問答」(Paroles sous les quatre-vingt dix-neuf têtes coupées) と 904夜からの「金剛王子の華麗な物語」(Histoire splendide du Prince Diamant) の2作である。 なお、最近の研究によると、1899年から1904年にかけて出版されたマルドリュス版は、世紀末から今世紀初頭にかけて活躍した作家たちからは賞賛をもって迎えられたとはいえ、文学的な潤色や歪曲が多く、底本についても曖昧な上、加筆や削除も目立つなど、学術的には問題が多いとされているようである (4)。
前者の「九十九の晒首の下での問答」は、謎解きに失敗して命を失った99人もの晒首の下で、100人目に挑戦した王子が謎解きに成功するという話である。 12に及ぶ王女の謎については、先の拙文で触れたが、物語の概要は次の通りである。
ある麗しい王子の両親である国王と王妃は、アラーの試練により、貧困のどん底にあった。王子はある街のスルタンに両親を売る。 父の代償として立派な馬を、母の代償として武装を手に入れた。王子は、求婚者にたくさんの謎をかけ、正しく答えられなかったら首を斬るという王女の住む街へ行く。 100人目の挑戦者として謎解きに挑戦する。 まず12の謎に正しく答えるが、王子は逆の提案をする。 王子が王女に謎を出し、王女が正しく答えたら、自分は首を斬られてもいいと。 謎の内容は「私が馬にまたがっていながら、父にまたがっている、 またこうして皆の目にさらされていながら、母の衣類に隠されている、これはどういうことか」というもの。 王女は答えることできない。 王子はこれまでの自分の境遇を語り、謎解きをする。王子は王女と結婚し、両親も呼び戻す。カーナは、この物語をゴッツィの『トゥーランドット』の基になった作品としているが (5)、実際にはペティの『千一日物語』の中の物語がそうであるから、これは誤りである。 ただし王子側からの逆提案という要素が既に含まれており、お馴染みのトゥーランドットと類似していることから、カーナも迷わされたのであろう。 この王子側からの謎の内容が、王子自身のこれまでの境遇をもとにしている点は、後述する一連のペルシアでの謎かけ姫の物語群と共通している。 それだけ好まれた題材だったのであろう。 この「九十九の晒首の下での問答」の物語自体、訳者の注によれば、もともと『千一夜物語』に含まれていたものではなく、マルドリュスが自分の版に取り入れたものとされている。従って、ペルシアにおける何らかの謎かけ姫の物語を基に、マルドリュスが翻案してできた物語と考えられる可能性も高そうである。
謎かけ姫の話はよほど人気があったのか、マルドリュス版『千一夜物語』にもう1つ存在する。 後者の「金剛王子の華麗な物語」であるが、これにも訳者による次のような注があり、こちらも『千一夜物語』にもともと含まれていたものではない。
これも元来『千一夜物語』にはないヒンドスタン語(ウルド語)の物語で、ヒンディー語の大家 Garcin de Tassy によって初訳されているという。 "Allégories, récits poétiques et chants populaires, traduits de l'arabe, du persan, de l'hindoustani et du turc" (アラビア語、ペルシア語、ヒンドスタニー語、トルコ語より訳された寓話、詩物語及び民謡集) Paris, Leroux, 1876.この「金剛王子の華麗な物語」も別の物語集からマルドリュスにより取り入れられた物語のようであるが、物語の内容は以下の通りである。(ショーヴァン『書誌』による)
モホラ姫という絶世の美女がいた。 彼女に求婚するためには解かなければならない謎がある。 その謎は「松かさと糸杉との間の関係は?」(Quels sont les rapports entre Pomme de Pin et Cyprès)というだけのもの。 もしこの謎に正しく答えられなければ、首を斬られ、宮殿の尖塔にさらされる。 この謎を解くために、金剛王子がそれこそ文字通り、華麗に世界中を駆け巡る。 行く先々で出会う女性から気に入られ、その都度ヒントをもらい、目的を達成する。まずモホラ姫の国に赴き、「珊瑚の枝」という名の侍女から、ワーカークの街で謎が解明できることを教えられる。 その後、ラティファ、その妹ガミラ、アジザ女王に手助けされ、無事にワーカークへ到着。 苦労の末、何とか謎を解明する。 松かさと糸杉とは、ワーカークの糸杉王と松毬姫のこと。 深夜、松毬姫は糸杉王の目を盗んでは、7人の黒人のもとへ出かけ、彼らに暴行されることに喜びを見出していた。 ある晩、不審に思った糸杉王にその現場を押さえられ、黒人たちは殺される。 一人だけ逃げ去った黒人が、モホラ姫の寝台の下に潜り込み、姫をそそのかして、この難題をふっかけさせているという。
帰路は、逆の順序でこれまで協力してくれた女性のもとへ一人一人立ち寄り、4人全員を妻にしていく。 モホラ姫の宮殿で謎の解明をする際には、誰も気づく者のいなかなかった黒人を、姫の寝台の下からつまみ出し、姫を魔法から解いてやる。 そしてモホラ姫を含め、5人の女性を連れて自分の国へ戻っていく。
非常に面白い内容の物語であるが、王女の謎かけの原因が、悪い黒人にそそのかされてのことというのは、この種の他の物語には見られない、この物語独自のものである。 また複数の女性と結婚するというのも、同様である。 私見では、これらの点で、後述する謎かけ姫物語の系譜からは、少々外れているようにも思われる。 ただし、「不義密通、サディズムなどのセックスをめぐるテーマは、アラビアン・ナイトにあまねく行き渡っている」 (6)という観点からこの物語を見れば、極めて『千一夜物語』らしい物語に仕上がっているようとは断言できよう。 そもそもシャフリヤール王が、妃の不貞を発見して以来、一夜明ける毎に女性を殺していたのに、シェヘラザードだけは、話の続きを聞くために、処刑を延期し続けるという設定が、この枠物語全体の出発点でもあることは、周知の事実だからである。
さて、オバニアクはこのあと、ニザーミー (Nizami: 1141〜1202) の『ハフト・パイカル』(七人像)についても触れている。 これは、先の拙文で触れたように、7人の王妃が皇帝バフラームに順番に話をするという設定の枠物語で、4番目のロシア王妃の語る物語が、謎かけ姫の物語として有名である。砦に住む王女は、求婚者に対して次の4つの条件を課す。
ある美青年が、賢者の教えに従い、赤い服を着ることで魔像の力を取り除き、太鼓を叩いて砦の門を探し当てる。最後の王女と求婚者との謎のやり取りが、通常の言葉による問答ではなく、比喩的で謎に満ちたやり方でなされるのが、他の物語と大きく異なっている。
1 | 耳たぶから2つ真珠を外して渡す | その2つに別の3つを加えて返す |
2 | 砂糖を加えて一緒に磨りつぶす | 乳をかけて返す |
3 | 指輪を送る | 光輝く真珠を渡す |
4 | 彼の真珠に自分の真珠を結び付ける | 青いビー玉を間に通して返す |
これらの行為は、次のような意味に解釈されるという。
1 | あなたの命はあと2日だけ | たとえ5日でもすぐ過ぎる |
2 | 砂糖と真珠は分離できるか | 乳をかければ分離できる |
3 | 結婚に同意する | 私ほどの者は得られまい |
4 | 私こそ相応しい伴侶 | 我々2人に匹敵する者はいない |
こうして王女はこの求婚者と結ばれるのだが、これらのやり取りについては、無言による鋭敏さの試問 (eine stumme Scharfsinnsprobe(7) )、あるいは比喩的言語による論議 (eine Debatte in einer Bildersprache(8))などとも表現されている。 この物語は、ベルシアにおける謎かけ姫物語のもっとも初期のもので、極めて重要な地位を占める作品であるが、これについてはまた後述する。
オバニアクは、このあとすぐ『千一日物語』に話を進めているが、ここではその前に、アールネ/トンプソンのよく知られている「民話の型」について触れておくことにする。 まず、ATh 851で「謎が解けない王女」のタイプが立項されているが、ここから派生した ATh 851Aとして、「トゥーランドット」が独立して取り上げられている。 そこで「王女が求婚者に謎をかけ、解けなければ死刑にする」という簡潔な説明が与えられているだけだが、「謎が解けない王女」と同類のものとして扱われていることが興味深い。 このタイプの話としては、グリム童話の「なぞなぞ」(Das Rätsel KHM 22)が代表例であるが、謎をかける王女より、謎が解けない王女の物語の方が、各国における分布度は高いようである。 「なぞなぞ」の内容は次の通り。
自分に解けない謎を出した者と結婚するという王女がいた。 その代わり、王女がその謎を解いたら、求婚者は首をはねられる。 9人の男が命を落としたあと、 ある王子がこの王女の住む街へやってきて謎を出す。 「ある人が、1人も殺さずに12人殺した」(einer schlug keinen und schlug doch zwölf)とは何かというもの。 この意味は、この王子が王女のもとへ来るまでに体験した出来事で、ある老婆から渡された飲み物が飲む前に破裂して馬にかかり、その馬が死んでしまう。 この馬を食べたカラスを、人殺しの悪党12人が食べて死んでしまい、王子は危うく難を逃れる、といった体験である。王女は謎の答えがわからないので、王子のところへコートを着てやってきた。 王子から答えを聞き出すのに成功するが、コートは王子に奪われる。 翌朝、王女は謎に答えるが、残してきたコートから策略を用いたことが発覚し、王女はこの 王子と結婚することになる。
これが「謎が解けない王女」の物語の典型例であるが、謎かけ姫物語においても、逆に求婚者の側から王女に謎をかけ、王女が解けずに求婚者と結婚するという要素を含んでいるものも多い。 アールネ/トンプソンにおいて、この2つが表裏一体のものとして扱われるのも、その意味では妥当であるかもしれない。 この「なぞなぞ」で興味深いのは、求婚者が王女に出す謎の内容が自分の体験をもとにしていること、王女が策略を用いて、その謎の答えを探ろうとすることである。 この2点は、あとで見るように、ペルシアの謎かけ姫の物語の系譜において、何度も登場する要素である。
さて、王女が求婚者に条件を課し、失敗したら首をはねるという話は、グリム童話にもう一つ存在する。「あめふらし」(Das Meerhaschen KHM 191)と題されたもので、内容は次の通りである。
王女の城には、12方向への何でも見通せる窓のついた広間がある。 この王女と結婚するための条件は、「王女に見つからないように隠れること」というもの。 もし見つかれば、首をはねられ、杭にかけられる。既に97人の首が杭にかけられた。 3人兄弟が挑戦し、上の2人が失敗して、ついに99人の首が並ぶことになった。 次に3番目の兄弟が挑戦する。彼は助けた狐の力を借りて、あめふらし(直訳すると「海うさぎ」の意で、カタツムリのような軟体動物)に化ける。 そして王女が何でも見通せる広間に行くときは、お下げ髪の下に入り込むようにと、狐に忠告される。 王女は結局、隠れ場所を見つけることができず、もとの姿に戻ったこの男と結婚する。
100人目の挑戦者が成功するという点は、マルドリュス版『千一夜物語』の「九十九の晒首の下での問答」と共通している。 区切りのいい数が、物語や童話では好まれるからであろう。 グリム童話においても、このような謎かけ姫物語が(特に有名な作品という訳ではないが)複数含まれているということは、この題材が各地に浸透していることを示すものであろう。 なお、これらの物語の起源はペルシア方面に求めるのが一般的のようで、グリム兄弟自身、採話した民話のうちの数編は、『千一夜物語』に由来することを承知していたという(9)。
U 『千一日物語』の「カラフ王子と中国の王女の物語」
今世紀のプッチーニやブゾーニのオペラで知られる『トゥーランドット』の原作については、ゴッツィの同名の劇作品であると一般には言われている訳だが、実際にはゴッツィの劇作品もフランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix:1653〜1713)の『千一日物語』(Les Mille et un Jour)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」(Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine)に由来するものであることが、いくつかの研究からほぼ断定できるようである (10)。 18世紀初頭のフランスでは、1704年から1717年にかけてアントワヌ・ガラン(Antoine Galland:1646〜1715)による『千一夜物語』(Let Mille et une Nuits)が出版され、この物語が初めてヨーロッパに紹介されることになったが、ほぼ同時期の1710年から1712年にかけて、ペティ・ド・ラ・クロワにより、この『千一日物語』が出版される。 この時期のフランスは、メルヒェンの歴史においても重要な時期で、17世紀後半、ペロー(Charles Perrault: 1628〜1703)により童話集が出版され以来、宮廷や上流貴族を中心とする読書界には、メルヒェンや奇談を含む物語集に対する受容基盤もあったとされる (11)。
『千一日物語』は,その書名自体もそんな感じではあるが、『千一夜物語』のイミテーションと考えられることもある (12)。 もちろん多くの例外があるとはいえ、概ね、『千一夜物語』は女性に反感を持つ王子という観点で書かれているのに対し、『千一日物語』は男性に反感を持つ王女という観点で書かれているからだという(もちろん「トゥーランドット」もこれに含まれるであろう)。 ただし、この時期の出版に関しては、ガランの『千一夜物語』の「第七巻に入っている『ザイン・アルアスナーム』や『フダトと兄弟たち』といった物語は、別の東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワがトルコ語写本から訳出したものだ。 これはガラン本人のあずかり知らぬことで、同書のまれに見る成功に便乗し金儲けを焦った出版社のしわざだ」(13)との指摘もあるように、いろいろな要因が絡んでいたことも否定できないようではある。
作者のペティについては、日本ではまったくといっていいほど知られていないが (14)、ルイ14世(在位:1643〜1715)のいわゆる「大世紀」(Grand Siècle)の時代に活躍した優れた東洋学者で、歴史家や外交官の仕事もこなしていたという。 1653年にパリで生まれ、父がルイ14世の通訳秘書を務める東洋学者だったこともあり、東洋の言語に関しては早くから精通し、1670年に16歳で、コルベールにより中東の使節として派遣され、エジプト、パレスチナ、ペルシア、アルメニアなどを訪れた。 また小アジアを経由してコンスタンティノープルにも赴いた。旅行中は、言語、文学、風俗、習慣、美術なども研究し、ありとあらゆる珍しいものを集め、また多数の写本を王立図書館へ持ち帰った。 ルイ14世も彼に会って話をしたがったという。 ペティは近東諸国の言語を担当する海軍省の通訳秘書にもなり、トルコやモロッコへ学術調査や政治使節として赴いた。 1692年にコレージュ・ロワイヤルのアラビア語の教授に就任し、その数年後、父のフランソワ・ペティ(1622〜1695)が亡くなると、父の務めていた国王の通訳秘書の職も引き継いだ。 1710年から1712年にかけて『千一日物語』を出版し、その後、1713年に亡くなった。『千一日物語』はブルゴーニュ公爵夫人(1685〜1712:ルイ15世の母)を楽しませるために出版されとも言われている (15)。
『千一日物語』については、原テキストは失われてしまっているが、もとの物語集は、イスファハンの聖職者であったモクレ(Moclèt)が、インドの原作をもとに構想したもので、その手稿を、1675年にフランス人の友人だったペティに遺贈したという (16)。 ただし、このモクレという人物が実在の人物であったかどうかについては、オバニアクのように、疑っている研究者もいる (17)。 膨大なペティの手紙のどこにも、モクレという名前が見当たらないからだという。 ペティがこの物語集を権威づけるために、このモクレなる人物を考案して利用した可能性も極めて高いと考えらてもいる。 ただし、内容自体が彼の創作という訳ではなく、ペティが現地で読んだり聞いたりした話をもとに、彼の流儀でまとめ上げた作品であることは確かなようである。
さて、この『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」であるが、内容を検討すると、ゴッツィの『トゥーランドット』の原形がほとんど存在することが確認できる。 謎かけ姫の物語において、登場人物に名前がつけられるようになるのもペティ以降であるが、トゥーランドット以外の主な登場人物の名前についても、ゴッツィ以降、プッチーニのオペラに至るまで、ほぼそのまま継承されている。
Pétis(1711) | Gozzi(1762) | Puccini(1926) |
Tourandocte | Turandot(18) | Turandot |
Altoun-Khan | Altoum | Altoum |
Calaf | Calaf | Calaf |
Timurtasch | Timur | Timur |
Adelmulc | Adelma | (Liu) |
トゥーランドットという名前の由来についてはいろいろと言われている。 1843年に出された『千一日物語』の新版につけられた注では、 「Tourandocte、または Pourandocte は王妃の名前、ササン朝末期の王の一人である Khosrov Perviz の娘」との記述もある。 オバニアクによれば、Touranといえば、一般にはトルキスタン地方を指し、dochte というのは、フランス語で学者(衒学者)という意味をもつ単語であることから、フランス人ペティ自身が考案した名前ではないかとの可能性も示唆している (19)。 謎かけ姫物語の長い歴史において、王女に名前がつけられるのは、この『千一日物語』が初めてであることから、ペティがつけたのではないかと考えるのも自然な考え方であるように思われる (20)。
この「カラフ王子と中国の王女の物語」の概要は次のようなものである。
皇帝アルトゥン汗の娘トゥランドクトは、美貌と知性に恵まれているが、男性への嫌悪から、結婚を拒んでいる。 かつて、チベット王子との結婚話が持ち上がったとき、彼女は憔悴して病気で死にそうになった。 そのため「求婚するには、謎に答えなければならない。しかし正しく答えられなければ、宮殿の中庭で首をはねられる」という彼女の結婚の条件に皇帝は同意させられてしまった。 このような過酷な条件にもかかわらず、彼女に魅せられた多くの者が命を落とした。ある日、タタール・ノガイ族の長だったティムルタシュ、彼の息子カラフが、幾多の苦難ののち、北京にやってくる。 ちょうど謎解きに失敗したサマルカンドの王子が処刑されるところであった。 この王子の家庭教師から、トゥランドクトの肖像を見せられると、不思議な動揺に襲われ、即座にすっかり魅せられてしまう。 そして彼女に求婚するために、謎解きに挑む。
第1の謎「世界中のすべての人の友達で、自分と同等の者に我慢できないもの」
第2の謎「子供たちを産んで、大きくなると、彼らをむさぼり食う母親」
第3の謎「表が白、裏が黒の色の葉をもっている木」
答えはそれぞれ、「太陽」(le soleil) 「海」(la mer) 「一年」(l'année)カラフは謎解きに成功。観衆は歓声を挙げるが、王女は絶望し、翌日、さらに 謎かけができるように皇帝に懇願する。しかし皇帝は認めない。するとカラフは、 自分が出す謎に彼女が正しく答えられば、自分の権利を放棄すると言う。 「数々の苦労を味わってきたが、今は栄光と喜びの絶頂にある王子の名前は?」
トゥランドクトは朝までの猶予を求める。夜遅く、女奴隷のアデルミュルクが カラフのもとへやってくる。彼女はある国の王の娘だが、アルトゥンに征服され、 今は奴隷である。 トゥランドクトがカラフを暗殺しようとしていると、彼女はカラフに信じ込ませる。カラフはすっかり動揺し、自分と父の名前を漏らしてしまう。 彼女はカラフに愛を告白し、一緒に自分の親族のところへ逃げようと誘う。 しかしカラフはそれを拒否し、彼女は絶望する。
翌日、トゥランドクトは謎に答える。「王子の名はカラフ、ティムルタシュの 息子。」 カラフはがっくりし、気を失う。正気に戻ると、どんでん返しが起きる。 王女は言う。「彼に対して新たな気持ちを感じるのです。彼の能力、父が示した 愛情に対して。私は結婚に同意します。」
皆は歓呼の声を挙げる。 皇帝は娘を抱擁し、名前を知った理由を尋ねる。 王女は言う。 「奴隷の一人が、夜に秘密を巧みに引き出したのです。王子はその裏切 りを許してくれるでしょう。私がしたのではないのですから。」 するとアデルミュルクはベールを取って言う。 「私がカラフ王子と会ったのは、名前を知るため でも、王女に仕えるためでもありません。奴隷から脱したかったのです。あなた の愛する人を連れ出して。彼は私の頼みを退けました。嫉妬から、私は嘘の告白 をしたのです。それで彼は名前を漏らした。」そう言うと、アデルミュルクは短 刀をとり、自害する。彼女の葬儀のあと、トゥランドクトとカラフの挙式が取り 行なわれ、皇帝の助力で、カラフの父は自分の王国を取り戻す。
この作品をもとに、ゴッツィはコメディア・デ・ラルテの劇として、1762年に『トゥーランドット』を発表するが、オバニアクが指摘しているペティとゴッツィの類似点と相違点は次のようである。
類似点
相違点
以上のことから、オバニアクは「ゴッツィの作品は、細かな違いがあるとはいえ、ほとんどペティの物語の舞台向けの盗作 (démarquage) でしかない」(21)とまで言っている。 内容的には、他にも、カラフが父のティムールと一緒に北京にたどり着くまでの物語の先史となる苦難の行程、タタール・ノガイ族がホラズム王の侵攻を受け、カラフの一家がアストラハンの街を脱して放浪するという物語の背景も、ゴッツィはそっくりそのまま冒頭のカラフとその教師だったバラフとの再会の場面で利用している。 一番大きく違うのは、女奴隷のアデルマ(ペティではアデルミュルク)が最後に自害して死ぬか、死なずに自由を取り戻すかという点であろう。
こうしてみると、確かにゴッツィは物語を劇に改作しただけと思えなくもないが、もしゴッツィが劇作品としてヒットさせなかったら、後世へこれほどまで影響を及ぼしたかどうか。 ゴッツィが存在しなければ、トゥーランドットがここまで有名な物語になったかどうか。 そうしたことを考えると、素材選択の鑑識眼の高さ、改作とはいえ、ヒットする劇作品に仕上げた力量といった点で、ゴッツィの功績も認められるのではなかろうか。 コメディア・デ・ラルテとして評判をとったお陰で、シラーの翻案を通してイタリアからトイツに紹介される契機ともなった。 ブゾーニのオペラもゴッツィの舞台上演の付随音楽から発展して完成されたものである。 プッチーニがゴッツィの劇の上演をベルリンで実際に見ていることも知られている。
同時にまた、ゴッツィが自作に利用した作品を正しく知ることも、ゴッツィ研究の上で必要かつ重要なことであり (22)、今後、フランス以外の国においても、ペティの『千一日物語』が正当に認識評価され、日本でも専門家の手によって、きちんとした翻訳と紹介がなされるようになることを期待したい。
V 『千一日物語』に至るまでの物語の変遷
『千一日物語』のペルシア語原典が紛失しているというのは大変残念ではある。また、オバニアクは『千一日物語』の原典を書いたとされるモクレなる人物の存在自体を疑っていて、この物語に権威を持たせるためにそういう体裁をとっただけではないかと考えていることも、先に触れた通りである。 このように、この物語集の出自について、いささか判然とはしない部分も残るが、この物語集の成立事情がどのようであれ、「カラフ王子の物語」に限っても、誰かがいきなり創作した物語ではなく、長年の変遷の末にできた物語と考えられる。 もちろん『千一日物語』において、王女にトゥーランドット(トゥランドクト)と名前が付けられ、後世に知られるようになる訳だが、それに至るまでの過程については、マイアーの「ペルシアのトゥーランドット」という論文で詳細に触れられている。 ニザーミーの叙事詩以降、様々な散文での形態による数世紀の変遷を経た末に成立している事情が手によるようにわかる。 この論文は1941年の『ドイツ東洋学会誌』に掲載されたものだが、戦前のドイツにおける東洋学研究の水準の高さをうかがわせると同時に、トゥーランドット研究において、今日でも重要な文献であろう。 そこで、最後に、このマイアーの論文に沿って、ペルシアにおける謎かけ姫物語の変遷と展開を追ってみたいと思う。
まず、1197年に完成されたニザーミーの叙事詩『ハフト・パイカル』(七人像)が、現在残されているものの中では、謎かけ姫物語のもっとも古い形とみなされている。 この物語の内容については既に触れたように、王女と求婚者との謎のやり取りが、通常の言葉による問答ではなく、真珠などのやり取りによって行われるのが、その後のものと違っている。 ただし、殺されて城門にかけられた求婚者の首については、後年のゴッツィ以降の「トゥーランドット」で、王女の肖像により魅せられる求婚者という設定は、『千一日物語』でそれぞれ取り入れられている。 Gelpke によるこの作品のドイツ語訳では、この物語がトゥーランドット物語の先駆的なものであることから、王女の名前を敢えてTurandocht として表記しているほどである。 ただ内容的にみると、求婚者が謎のやり取りに成功したあと、王女が何の躊躇もなく求婚者のものになる感じで、王女の心理的な側面が、後のものとは異なっている。
その後、最初に散文形態で書かれたのが13世紀で、'Aufiにより1228年にデリーで書かれた "Dschawâmi 'ul-hikâyât"という膨大な物語集である。その中に次のような物語が含まれているという。
ギリシア皇帝にこの上なく美しい娘がいた。 彼女は自分の出す謎を解いた者にだけ求婚に応じ、謎解きに失敗した者は死なねばならない。 これまで無数の者が命を落とした。メソポタミアに住むある貧しい一家は、息子の勉学のために貧窮を極めていた。 一家はペルシアに移住し、息子は父を売って驢馬を買い、母を売って鎧を買い、そしてこのギリシアの王女を得ようとした。
王宮では、彼は9つの質問すべてに答え、最後に逆に王女に質問する。
「父が驢馬、母が鎧、水で濡れた葉により救われた者は、どんな人間か?」王女は翌朝まで猶予を乞う。王女は2人の女官に豪華な服を着せ、自分は召使いに変装して、晩に一緒に男のもとへ出向く。 彼女たちは策を弄して秘密を聞き出す。 その代償として、彼は女官の1人を一晩自分のものにしてよかった。 しかし彼は召し使いを選ぶ。 彼が彼女を捕まえようとすると、彼女は彼の手を噛み、装身具を残したまま逃げ去る。
翌朝、王女は質問に簡単に答える。 すると男は、3羽の雌鳩と1羽の雄鳩に関する問いを発し、前の晩の出来事をほのめかす。 王女は策を弄したことを恥じ入り、母にすべてを語り、母の忠告に従って結婚に同意する。 男は皇帝になり、ペルシア王に売った両親を買い戻す。
この物語では、求婚者による逆の質問が導入されている。この質問の謎は、求婚者のこれまでの体験をもとにしたものであるが、これにより、王女の質問と求婚者からの質問と、物語における緊張が2個所形成されることになる。 この最初の散文の形態において、既に後年の謎かけ姫物語の原形が出来上がっていると考えられる。
15世紀には、'Abd ul-Gafûr-e Lâri(1506年没)という人物が残した写本が存在する。 これはオックスフォードのボドリアン図書館(Bibliotheca Bodleiana)が所蔵する写本、Ouseley Adds.69と呼ばれ、その内容は、以下のようである。
中国の皇帝にこの上なく美しい娘がいた。 議論でも誰も彼女にかなう者はいなかった。 両親がこの娘の結婚を考え始めた頃、彼女は自分の出す質問に答えられる者だけが自分を妻にでき、答えられない者は死でその身のほど知らずを償い、その財産は自分のものになる、との申し出をした。 そのため、何千人もの大胆な若者が、謎を解けずに命を落とした。エジプトから王子がやってきて謎解きに挑む。 そして、すべての謎に答える(謎の場面は16頁以上に及ぶ膨大なもの)。 王女は困惑し、物思いに沈む。 さらに謎かけを続けるようとするが、父は思いとどまらせ、この王子との結婚と、王国の半分を持参金として与えることを提案。 王女は結婚を決心し、婚礼が盛大に祝われる。
内容的には、極めて簡素なものだが、中国が舞台になっていることが、後のトゥーランドット物語の先駆となっている。
『千一日物語』に一層近い内容を含んでいると考えられるのが、同じオックスフォードのボドリアン図書館に所蔵されている Ouseley 58と番号がつけられたペルシア語の写本である。 これまでの写本と違って、物語の全体が詳細にわたって記されているという。作者の名前は残念ながら不詳である。 この写本と似た内容のものが、ロンドンの India Office Library 所蔵のNr.2541 写本にも残されていて、これには、1645年12月20日とのデータが記載されており、年代的にもほぼ『千一日物語』の前段階のものと考えられる。 また同内容の物語の不完全な形での写本が、イスタンブールのアヤソフィア大聖堂の図書館に、Nr.1814写本として所蔵されているという。このように、この時期になって、謎かけ姫物語が徐々に大きなまとまりを見せてくるようになる。
このボドリアン写本 Ouseley 58 の膨大な内容は、概略、次の通りである。
トゥーランの王の一族が国を追われ、苦難の旅を続ける。 やがて食事の糧を得るのにも苦労するようになり、息子の王子は両親に自分を売ってくれるよう提案する。 すると両親は反対に、息子に自分たちを売るように申し出る。 ある晩、白い鷹が王子のところにやってくる。この鷹を街へ連れて行くと、この街の国王が長いこと探していた鷹だという。 国王のもとにこの鷹を連れて行くと、国王は大喜びし、彼に何か望みをかなえてあげると言う。 そこで王子は自分の両親を(自分の奴隷であると称して)買い取ってくれるように頼む。 父の代わりに、宮殿の馬小屋の立派な馬をもらい、母の代わりに武器と王の装束をもらう。このあと、盛大に結婚式が取り行なわれる。アヤソフィア写本はここで終わっているが、ボドリアン写本ではさらに後日談がさらに続き、王子は両親を取り戻し、また王位を追われた国も回復することになる。王子はさらに旅を続け、中国の使者と出会う。 この使者は中国の国境から500キロ離れたある王のもとに皇帝の手紙を持っていくところであった。 この使者は王子の高貴な姿を見て、自分がお供するから、自分の代わりに使者となるよう提案する。 王子はこれを受け入れ、一緒に旅を続ける。 すると恐ろしい雷鳴と稲妻とともに、最後の審判の日がやってきたかのような激しい嵐に見舞れる。 真暗闇の中、王子はこの同伴者を見失う。 翌朝、人気のない砂漠の中で、渇きに襲われる。 神に祈ると深い井戸が見つかる。 ターバンの布と藁で作った綱と、葉っぱで作った容器とで、何とか水を飲むことができた。 そして彼に託された手紙を読んでみると、そこには、この手紙を持参した者を即刻殺せ、と書いてあることがわかった。 彼は神に感謝し、この手紙を破り、井戸に投げ捨てた。
彼は中国に到着し、皇帝の住む都市までやってきた。 市門の外の老女の住む小さな家に宿をとる。 12歳前後の少年が面倒を見てくれる。 王子は老女に、皇帝に子供がいるのか尋ねる。 「一人娘がいて、たぐいまれなほど美しいが、残忍でもある。すべての求婚者に謎かけの場に呼び出す。 まず彼女は求婚者に顔を見せ、彼の平静さを失わせる。それから謎を言い渡す。解けない者は、死ななくてはならない。」
王子は一晩中、目を閉じることができなかった。翌朝、馬に乗って城に出かけると、一人の若者が首をはねられるところであった。王女への罵声も耳にした。 王女の一番新しい犠牲者とのことであった。王子は部屋に戻り、昼まで沈思黙考にふける。 王女に求婚するという決心を老女に告げる。彼女の警告にも耳を貸さず、翌朝、城へ向かう。 城では皇帝にも挑戦を思いとどまるように説得されるが、一切拒否する。 やがて夜空の月のように光輝く王女が登場する。彼女は玉座に座り、王子に向かい側の椅子に座るよう指示する。 そのとき、ベールを上げ、魅惑的な眼差しを向けると、広間のすべての松明が灯されるかのようであった。 王子は心を奪われ、椅子からころげ落ちそうになる。
次から次へと出される謎は、大部分は聖書に関する内容。 王子はすべての質問に答えるが、夜になり、謎解きは中断する。 翌日もまた謎解きが続き、これにもすべて解答する。 3日目の謎には、インド起源と考えられる「一年」を答えとする謎も出てくる (23)。 4日目も、王子がすべての謎に答えると、王子は逆に王女に謎を出す。
「落ちぶれて、家も宮殿も玉座も失った王子。父と母により身支度を整え、パンを求めてさまよっていると、第1の死に出会う。 小脇には第2の死もかかえ、死とともにさまよう。 何とか逃れると、今度はこれまでよりも過酷な第3の死と遭遇する。 この第3の死と必死で戦い、その死の支配者となった王子、この王子は誰か?」
王女は一晩考える猶予を乞う。王女は策略を巡らす。 まず腹心の侍女を呼び、高貴な服装と装身具を身にまとわせ、ワインの入った瓶を持たせて、王子のもとへ遣わす。 王子は訪ねてきた月光のように光り輝く娘に驚き、誰かと尋ねる。娘は言う。
「私は皇帝の奴隷で、あの結婚しようとしない王女の敵です。 彼女の出す問いはすべて逃げ口上。 もう500人もの王や王子を死なせました。私は謎解きでのあなたの見事な振る舞いに、すっかり惚れてしまいました。 実は、あの王女があなたの命を狙っているのです。 この話を聞いて、あなたへの想いから、これを知らせに、ここへやってきたのです。 あなたのことが心配です。 あなたは今晩、私と一緒に過ごし、卑劣な王女と決別しなければなりません。」
王子は呆然とし、またこの娘を不憫に思い、一晩だけ彼女と過ごそうと思う。 彼女は王子をワインで散々に酔わせる。王子が彼女をものにしようとする直前に、娘は謎の答えを教えてくれるように頼む。王子は次のように答える。
「あの王は私のことである。あの謎は私自身。私は王位を追われ、窮状に陥った。 父を売って馬を手に入れ、母を売って衣装と武具と整えた。パンを探すために道をさまっているとき、若い男に出会った。彼は中国の皇帝の使者だという。 私の方が立派なので、私に代わりに使者になれと言う。私は手紙を小脇にかかえ、彼と一緒に進んだ。すると突然、激しい雷雨が襲ってきた。 道に迷い、この男も見失った。探しても無駄だった。水も住まいもない砂漠で渇きに襲われ、死ぬかと思った。 これが第1の死である。やっとのことで井戸にたどり着き、水にありついた。手紙を開けてみた。すると『これを持ってきた者を殺せ』と書いてあった。 私が小脇にかかえていたもの、これが第2の死。もしこの手紙を王に渡していたら、私は殺されたのだから。私は手紙を破り、井戸に投げ捨てた。 第3の死は、この街でのこと。王女の謎かけ。もし答えられなければ、殺されるのだから。」
侍女はこれを聞くと、王子に一緒に寝ようとうながす。 彼女は服を脱いでからトイレに行き、しばらく戻って来ない。 その間に、王子は酔いがまわり、寝入ってしまう。侍女は立ち去る。
翌日、王宮に遅れてやってきた王子に向かって、王女は言う。 「第3の死を恐れて、来るのが遅くなったのですか?」 王子は答える。「いいえ違います。昨晩、真夜中に狩りへ出かけたのです。 鳥がやってきたので、捕えて焼きました。 そして口に入れようとしたら、突然飛び出したのです。 しかし羽はまだ私の手許にあります。ご覧にいれましょうか?」 王女はしっぽをつかまえられたこと悟り、「その必要ありません。その鳥はもはや八方塞がり」と言う。 そして父に次のように伝言させる。「私は若者の問いに敗れました。この男と結婚するように命じて下さい。 彼は私に相応しいのだから。」
このボドリアン写本の物語の内容は、『千一日物語』のカラフ王子の物語の内容と似ている点が極めて多く、以下のような類似点も指摘されている。
他方、『千一日物語』の方では、以下のような変更がみられるという。
以上、マイアーの論文の概要に沿って、ペルシアにおける謎かけ姫物語の系譜を辿ってみたが、この最後のボドリアン写本を『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の女王の物語」が生まれる契機となった作品とみなすのは、内容の完成度の高さから見ても、極めて妥当であろう。 また『千一日物語』の成立にまつわる事情がどうであれ、「カラフ王子を中国の王女の物語」がペルシアの謎かけ姫物語の長年に渡る変遷を経ての一つの到達点の観があるのは、ペティ・ド・ラ・クロワの構想力と筆力によるところが大きいように思われる。 主要な登場人物に Tourandocte などを始めとするお馴染みの名前を与えたのも、おそらく彼であろう。
何はともあれ、今回、プッチーニのオペラで名高いトゥーランドットの物語に、こうした深い背景があることを知ることができたのは、大きな収穫であると同時に驚きでもあった。
(1) 最上英明 「トゥーランドット物語の変遷」 『香川大学経済論叢』第70巻第2号(1997年)169〜181頁。
(2) Ashbrook, W./Powers, H. Puccini's Turandot. 1991. 永竹由幸『オペラ名曲百科』音楽之友社、1989年。
(3) 高崎保男 「プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》」ポリグラム【カラヤン盤CD、レヴァイン盤LDなど】。
(4) アーウィン 『アラビアン・ナイト』 54頁以下。
(5) カーナ 『プッチーニ』下、 236頁。
(6) アーウィン 『アラビアン・ナイト』 215頁。
(7) Meier, F. Turandot in Persien. S.6.
(8) Wesselski, A. Quellen und Nachwirkungen der Haft paikar. S.115. 同論文によると、マスウーディー(896〜956)の物語でも、アレクサンダー大王と賢者との間で、こうした比喩的言語によるやり取りが見られるという。
(9) アーウィン 『アラビアン・ナイト』 141頁。
(10) 本文中で触れた Aubaniac の文献, 及び Meier, F. Turandot in Persien.など。
(11) Lüthi, M. Märchen. S.48ff. アーウィン 『アラビアン・ナイト』139頁。
(12) Pierre Larousse. Grand Dictionnaire Uniersel du XIXE Siècle. 1991.
(13) アーウィン 『アラビアン・ナイト』 29頁。
(14) ペティの略歴の記述は、主に次のものを参照した。Pierre Larousse. Grand Dictionnaire Uniersel du XIXE Siècle. 1991.
(15) Brèque, J-M. Le chef-d'oeuvre que Puccini ne pouvait achever. S.10.
(16) Meier, F. Turandot in Persien. S.1.
(17) Aubaniac, R. L'énigmatique Turandot de Puccini. S.20.
(18) Turandotte となっている版もあるという。
(19) Aubaniac, R. L'énigmatique Turandot de Puccini. S.21.
(20) Bürgelは、ドイツ語版『ハフト・パイカル』の注で、別の2つの解釈を示している。 tur-andukht と解すれば、トルコ人の娘 (Türkentochter)。 turan-dukhtと解すれば、山の護り(Berg-Bewahrte)である。 ただし、後者はかなり砦の姫をヒロインとする『ハフト・パイカル』の内容に影響された考えであろう。
(21) Aubaniac, R. L'énigmatique Turandot de Puccini. S.28.
(22) 他に『3つのオレンジへの恋』も、バジーレの『ペンタメローネ』を下敷きにしているという。 Brèque, J-M. La fiaba de Carlo Gozzi: génie parodique, théâtralité et merveilleux. S.12f.
(23) この謎は、'Aufi からペティ、ゴッツィ、シラーに至るまで用いられている。
A. 物語のテキスト
ニザーミー 『七王妃物語』 黒柳恒男訳、東洋文庫191, 平凡社、1971年。
Nizami. Die sieben Geschichten der sieben Prinzessinen. Aus dem Persischen verdeutscht u. hg. von R.Gelpke. Zürich: Manesse. 1959.
Nizami. Die Abenteuer des Konigs Bahram und seiner sieben Prinzessinnen. Aus dem Persischen übertragen u. hg. von J.C.Bürgel. München: C.H.Beck. 1997.
「九十九の晒首の下での問答」 『千一夜物語 8』 佐藤正彰訳、ちくま文庫、1988年。
「金剛王子の華麗な物語」 『千一夜物語 9』 佐藤正彰訳、ちくま文庫、1988年。
François Pétis de la Croix. Les Mille et un Jours, Contes Persans. Nouvelle Édition. Paris: Société du Panthéon Littéraire. 1843.
Carlo Gozzi. Turandot. Aus dem Italienischen übertragen von P.G.Thun-Hohenstein. Stuttgart: Reclam. 1965.
Brüder Grimm. Kinder- und Hausmärchen. Gesamtausgabe in zwei Bänden. München: dtv. 1984.
「なぞなぞ」 『グリム童話集 1』 金田鬼一訳、岩波文庫、1979年。
「あめふらし」 『グリム童話集 5』 金田鬼一訳、岩波文庫、1979年。
B. 研究文献
Aarne, A./Thompson, S. The Types of the Folktale. A Classification and Bibliography. Helsinki: Academia Scientiarum Fennica. 1961/19874.
Ashbrook, W./Powers, H. Puccini's Turandot. The End of the Great Tradition. Princeton: Princeton University Press. 1991.
Aubaniac, R. La légende de la Princesse cruelle, des origines à Puccini. In: "Turandot". Paris: L'Avant-Scène Opéra. 1991/19973. 4−9.
Aubaniac, R. L'énigmatique Turandot de Puccini. Aix-en-Provence. Édisud. 1995.
Brèque, J-M. La fiaba de Carlo Gozzi: génie parodique, théâtralité et merveilleux. In: "L'Amour des trois oranges". Paris: L'Avant-Scène Opéra. 1990. 9−19.
Brèque, J-M. Le chef-d'oeuvre que Puccini ne pouvait achever. In: "Turandot". Paris: L'Avant-Scène Opéra. 1991/19973. 10−15.
Bürgel, J.C. "Nachwort " In: Nizami. Die Abenteuer des Konigs Bahram und seiner sieben Prinzessinnen. München: C.H.Beck. 1997.
カーナ, M. 『プッチーニ』上・下 (Carner: Puccini, London, 1958) 加納泰訳、音楽之友社、1968年。
アーウィン, R. 『必携 アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ』(Irwin: The Arabian Nights, London, 1995) 西尾哲夫訳, 平凡社, 1998年。
Lüthi, M. Märchen. Stuttgart: Metzler. 1962/19969
Meier, F. Turandot in Persien. Zeitschrift für der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft. 95(1941). 1−27.
Wesselski, A. Quellen und Nachwirkungen der Haft paikar. Der Islam. 22(1935). 106−119.