牟礼塩業組合
牟礼塩業組合
明治24年(1891)2月1日、久通浜・南浜・柏納屋浜の自作・小作を含む牟礼地区の塩業者合計13塩戸(久通5軒、南浜5軒、柏納屋浜3軒)によって牟礼塩田同業組合が設立された。この牟礼塩田同業組合は、購買販売組合の役割を果たした。組合員の生産した塩を集め、一括して仲買人に売り渡し、石炭(山口県元山炭が中心)・縄・叺などの材料を一括購入し、組合員に配分したのである。
先項で述べた東讃塩業組合へは、大正8年(1919)に加入しているが、大正15年(1926)に木太地区の塩田が木太塩田株式会社を設立して東讃塩業組合から脱退したのに次いで、この牟礼塩業組合も昭和5年(1930)に脱退している。
その後、昭和13年(1938)7月26日、保証責任牟礼製塩工業組合を設立した。同工業組合の煎熬工場では、蒸気釜を利用し、全組合員の鹹水を集めて集約煎熬を行なうことになった。こうして、組合員から提供された鹹水を一定基準で買い、これを煎熬して専売局に納入している。そして、賠償額の中から石炭・叺・縄などの材料その他の費用を差引、残額を鹹水提供量に比例して組合員に分配したのである。つまり、協同組合と同じ機能を果たしたのである。
その後、昭和18年(1943)10月27日に保証責任牟礼塩業組合に組織変更し、さらに昭和25年(1950)2月には、中小企業等協同組合法施行によって牟礼塩業協同組合に改組、さらに塩業組合法施行により、牟礼塩業組合へと改組されたのである。
煎熬工場が、蒸気利用式から真空式へと変更したのは昭和25年(1950)7月4日のことであり、また流下式に転換したのは、昭和33年(1958)7月のことであった。その後、昭和34年11月から35年2月にかけて、塩業整備臨時措置法に基づき、組合の直営塩田と鹹水製造人のうち九名が鹹水製造を廃止すると共に、煎熬部門も廃止され、鹹水は日本化学塩業株式会社へ譲渡することになったのである。
その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年(1971)12月2日に鹹水製造廃止許可が申請され、12月6日付の許可を受けて15日に製造は廃止されたのである。こうして、翌年3月31日をもって牟礼塩業組合は解散したのである。
略年表
1891年2月 | 牟礼塩田同業組合設立 |
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1919年 | 東讃塩業組合へ加入 |
1930年 | 牟礼塩業組合、東讃塩業組合から脱退 |
1938年7月 | 保証責任牟礼製塩工業組合設立 |
1943年10月 | 塩業組合法施行により保証責任牟礼塩業組合に改組 |
1950年2月 | 中小企業等協同組合法により牟礼塩業協同組合へ改組 |
1950年7月 | 煎熬工場、蒸気利用式から真空式へ転換 |
1954年1月 | 塩業組合法施行により牟礼塩業組合に改組 |
1958年7月 | 流下式転換工事 |
1959年~1960年 | 塩業整備臨時措置法にもとづき、煎熬は日本化学塩業株式会社で実施 |
1972年 | 第四次塩業整備により牟礼塩業組合解散 |