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解題

香川大学経済研究所 嘱託研究員 落合功

はじめに

本解題は、香川大学経済研究所所蔵の塩業組合関係資料について紹介する。

同研究所に塩業資料が残されていることはよく知られているところであり、これまでも伊丹正博氏(香川大学名誉教授)が、昭和50年代に『香川大学経済論叢』の中で同資料群を紹介している。それを参照すると、同資料群は、昭和47年(1972)3月の第四次塩業整備により、各塩業組合が解散したのに伴い、経済研究所で受け入れたようである。

資料受け入れの際に、一度粗仕分が行なわれ、組合単位で一括したものと考えられる(この段階での整理を第1次整理と呼ぶことにする)。東讃塩業組合関係の資料を、高松塩業組合や屋島塩業組合など東讃塩業組合を継承した各組合より受け入れた資料から抜き出し、一括してまとめたのは、この段階のことである。よって、資料を最初に受け入れた段階の現状は、今では知ることができない。

また、これまで同資料群の個々の整理は行なわれておらず、公開・閲覧はできない状態であった。資料は、未整理の状態で書棚に架蔵されていたのである。そこで1996・97年度に同研究所では、資料整理を実施し、全資料の袋詰めと目録作成を行なった(これを、第2次整理と呼ぶことにする)。本目録は、この第2次整理に基づき作成したものである。

整理方法は、一点ずつ袋詰めを行なう作業を中心に行なった。括り紐などで一括している資料は、ほどかず、そのまままとめた形で一点としてある。将来、これらは細目を作成することが望まれよう。

同研究所に所蔵されている資料群は、今回の整理方法でも8,000点を超えたものとなった。細目などに留意しつつ再整理を試みれば、おそらく 10,000点を超える資料群となるであろう。また、全体を概観すると、昭和20年から40年代までを中心に、東讃塩業組合・高松塩業組合・屋島塩業組合・牟礼塩業組合・西野塩田株式会社・生島塩業組合・高屋塩業組合の関係資料が中心となっている。以下、本解題では、これらの塩業組合の紹介を行なっていくことにしたい。

1.東讃塩業組合

香川県下の各塩浜は、明治38年(1805)に塩専売法が公布されて以降、大正期に入っても、特に団体組織を有していなかった。各塩浜間の取り決めは、労働賃金率の協定であるとか、作業方法の統一に関する協定が主であった。技術的向上などへの寄与は見られず、旧態遵守にとどまっていたのである。このため、石炭の協同購入や包装用塩叺などの資材買付け、塩納代金の受領などを取りまとめるため、大正7年(1918)2月に東讃塩業購買組合が結成されたのである。さらに、これら諸事業を産業組合法の保護のもとに行なうこととし、大正8年(1919)11月22日に有限責任東讃塩業信用購買組合(『沿革資料』には有限会社東讃塩業信用購買組合とある)として発足した。同組合は、西から下笠居(一部分)・弦打・香西・西浜・木太・屋島・牟礼の塩浜で構成され、範囲は香川郡・木田郡・高松市の二郡一市、面積にすると300町歩近くに及んだのである。また、出張所を高松・潟元・牟礼の三か所に設置し、組織の整備を行なった。組合員は、塩田所有者および製塩業者が加入資格を有していた。さらに、昭和10年(1935)5月に保証責任東讃塩業信用購買販売利用組合となっている。

この間、大正15年(1926)には、木太地区の塩業者が組合から脱退し、昭和5年(1930)には牟礼地区も独立している。そして、昭和 18年(1943)11月、塩業組合法の施行に基づき東讃塩業組合、さらに昭和24年(1949)2月には中小企業等協同組合法により東讃塩業協同組合へと改組されている。また、昭和26年(1951)12月には、脱退はしなかったものの、屋島塩業協同組合が組織され、ついに昭和27年(1952)4月に屋島塩業協同組合と高松塩業協同組合に分離し、東讃塩業協同組合は解散した。

2.高松塩業組合

東讃塩業協同組合から昭和27年(1952)4月に屋島塩業協同組合と高松塩業協同組合の二つが分離したことは、先に記した通りである。この高松塩業協同組合は、昭和27年4月に設立総会が開かれ、定款・出資金・取引銀行などが取り決められ正式に発足した。

高松塩業協同組合を構成した塩浜名は、新浜・古浜・高松浜・宮脇浜・弦打浜・香西浜であり、香西には真空式製塩工場が建設され、昭和28年に試運転が行なわれ、火入れ式が行なわれている。

また、昭和29年(1954)2月10日に、塩業組合法施行により、高松塩業組合に改組した。またこの時、小豆島塩業協同組合を吸収合併している。この時の、高松塩業組合の組合員は77名、塩田面積は、おおよそ100町歩強であった。

昭和29年9月には台風12号・15号が襲来し、著しい被害を蒙った。組合内の塩浜でも、特に宮脇浜と土庄町大木戸浜は堤防が決壊し冠水したのである。この時、専売公社などから補助金と借入金を受けることになるが、これを契機として、入浜塩田を流下式塩田へと転換する。この後、流下式塩田への転換工事は漸次行なわれ、完成を見るのは昭和33年(1958)8月のことであった。

その後、昭和35年3月10日に塩業整備臨時措置法に基づき、真空式工場を廃止することになり、煎熬作業は日本化学塩業株式会社で行なうこととなった。その後、昭和47年(1972)3月31日、イオン交換膜法の実施にともない、第四次塩業整備が行なわれた。この結果、高松塩業組合は解散することになったのである。

3.屋島塩業組合

昭和26年(1951)12月26日、真空式製塩工場建設を契機とし、中小企業等協同組合法に基づいた屋島塩業協同組合が発足した。屋島塩業協同組合は、屋島浜・子の浜・亥の浜・潟元新浜・生簀浜を管轄し、加入組合員数は36名、塩田面積は100町弱で、東讃塩業組合潟元出張所に仮事務所を設置したのである。なお翌年4月には高松塩業協同組合が発足し、東讃塩業協同組合が解散する。また、昭和27年3月に、四重効用真空蒸発製塩設備の起工が行なわれ、翌28年1月16日に完成し、煎熬が開始された。この煎熬工場が廃止となるのは、昭和35年(1960)3月10日のことで、坂出市にある日本化学塩業株式会社が引き継くこととなったのである。

屋島塩業協同組合は、昭和29年(1953)3月29日に塩業組合法によって屋島塩業組合へと改組している。

その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年(1971)12月15日に塩田での採鹹を廃止し、翌年3月に屋島塩業組合は解散することになったのである。

4.西野塩田株式会社

西野塩田株式会社は、西野嘉右衛門が個人で所有していた塩浜を基礎に会社組織として大正9年(1920)7月に発足した。西野浜は、塩田開発の計画に当り、明治33年(1900)ごろから10年間をかけて、詫間町の塩元売商人をしていた小林駒吉などが奔走して、大阪の今井勢兵衛の出資などを得て塩田築造が行なわれたのである。西野浜全部が西野塩田株式会社の所有になるのは、昭和15年(1940)のことである。西野浜の元所有者であり、会社の名称にもなっている西野嘉右衛門という人物は琴平町での清酒「金陵」の醸造元としても知られている。しかしその後、大正9年(1920)7月には地方有志に同浜を売却したため、会社名とは裏腹に、株式会社の設立に当って、西野嘉右衛門は役員としては参加しなかった。従って、地元の当時琴平銀行の頭取であった石田甚吉や、詫間村長松田友良など地元の有志が役員として名前を連ねた構成となっている。

流下式塩田への転換工事は、昭和28年(1953)3月の着工を皮切りに塩浜を四回に分けて順次行なわれた。そして、昭和33年(1958)7月に全ての塩浜の転換工事が完了している。他方、煎熬工場についても、昭和11年(1936)西野塩田株式会社を含む詫間地区の塩田(松田塩田・松崎塩田・松崎沖塩田)が合同して、真空式製塩工場を建設し、合同煎熬会社を設立することを計画したが、戦争による資材不足のため中止している。結局、昭和24年(1949)12月の臨時株主総会を開催して真空式工場建設が決議され、翌年9月に工場が完成したのである。この時は、西野塩田株式会社は独自に出資して煎熬工場を建設している。

また、苦汁も当初は神島工業株式会社へ売り渡していたが、昭和27年(1952)に苦汁工場建設が着手され、昭和28年に完成している。製品は、煉瓦・肥料・石膏などの用途として販売されたが、採算の関係上昭和35年(1960)に工場を閉鎖した。

その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年(1971)12月18日に塩製造の廃止が許可され、12月31日に廃止となったのである。

5.生島塩業組合

生島における塩業の歴史は古く、天明8年(1788)に築造されている。所有権・製造権は、松平家が保有し、採鹹権は浜小作人が有していた。こうした関係は、専売制になっても変らず、近世に讃岐藩主であった松平家が製造権者となり、小作人が製塩を請け負っていたのである。実際のところ松平家は、浜事務所として松技舎を設置し、経営を行なっていたのである。

昭和23年(1948)3月に生島塩業組合が組合員95名で結成された。生島塩業組合は、昭和29年(1954)2月に塩業組合法施行によって改組しているが、その段階での資本金は450万円であった。

煎熬工場建設については、昭和24年7月に真空式製塩工場とするか、蒸気圧式製塩工場とするかで意見が分れた。そして、真空式製塩工場の建設を推進する組合員は、昭和24年9月14日、地主(松平氏)と小作人の出資により、せんごう法人生島塩業株式会社を設立し真空式製塩工場の建設を行なっている。一方、蒸気圧式製塩工場の建設を推進した組合員は、昭和25年4月に、下笠居塩業協同組合を設立し、蒸気利用式による採塩を行なっている。しかしながら、蒸気圧式製塩工場は、昭和27年ごろで中止となり、生島塩業株式会社に鹹水を送っている。こうして、下笠居塩業協同組合は解散し、同協同組合の組合員は、生島塩業組合に吸収された。

昭和35年(1960)2月の塩業整備臨時措置法に基づく塩業整理によって、生島新浜塩田と真空式製塩工場が廃止された。その結果、煎熬は牟礼・屋島・高松・三和の塩業組合と共に、生島塩業組合も日本化学塩業株式会社で行なうことになる。これにより、昭和35年2月に生島塩業株式会社は解散した。

流下式塩田への転換工事は、昭和28年から川窪浜5町歩を嚆矢とし、昭和31年まで行なわれている。

その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年(1971)11月30日に塩製造廃止の許可申請が出され、12月15日に鹹水製造が廃止となった。なお、生島塩田組合の事務所は、昭和30年1月16日に火災に遭っている。

6.高屋塩業組合

昭和23年(1948)8月28日に浜小作人が高屋製塩協同組合を設立し、さらに同年11月、保証責任高屋協同塩業組合となっている。

この組合対象地である高屋塩田は、ほとんどが三野家による所有であった。このため、小作人は、この製塩協同組合の設立を通じて底土権=塩製造権の獲得を意図したのである。結局、同年12月28日には、地主から塩製造権が譲渡され、全員が自作となり高屋塩業組合を設立するに至ったのである。その後、昭和25年(1950)には、中小企業等協同組合法施行を受けて、高屋塩業協同組合に改組し、さらに、昭和29年1月28日には、塩業組合法施行に伴い、高屋塩業組合に改組されたのである。

煎熬部門については、昭和27年(1952)8月に新興塩業協同組合が設立されると、木沢塩業組合や乃生塩産株式会社などと共に同組合に加入している。そして、翌年7月から煎熬を廃止し、鹹水譲渡を開始している。

採鹹部門での、流下式転換工事は、昭和30年(1955)から32年にかけて行なわれている。この流下式転換後に塩害が社会問題化しているが、運転規制や地域との対話を進めた結果、昭和43年(1968)以降は問題が顕在化していない。

その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年12月23日に鹹水製造廃止が申請され、翌年1月12日に許可されている。こうして1月24日に鹹水製造は廃止した。

7.牟礼塩業組合

明治24年(1891)2月1日、久通浜・南浜・柏納屋浜の自作・小作を含む牟礼地区の塩業者合計13塩戸(久通5軒、南浜5軒、柏納屋浜3軒)によって牟礼塩田同業組合が設立された。この牟礼塩田同業組合は、購買販売組合の役割を果たした。組合員の生産した塩を集め、一括して仲買人に売り渡し、石炭(山口県元山炭が中心)・縄・叺などの材料を一括購入し、組合員に配分したのである。

先項で述べた東讃塩業組合へは、大正8年(1919)に加入しているが、大正15年(1926)に木太地区の塩田が木太塩田株式会社を設立して東讃塩業組合から脱退したのに次いで、この牟礼塩業組合も昭和5年(1930)に脱退している。

その後、昭和13年(1938)7月26日、保証責任牟礼製塩工業組合を設立した。同工業組合の煎熬工場では、蒸気釜を利用し、全組合員の鹹水を集めて集約煎熬を行なうことになった。こうして、組合員から提供された鹹水を一定基準で買い、これを煎熬して専売局に納入している。そして、賠償額の中から石炭・叺・縄などの材料その他の費用を差引、残額を鹹水提供量に比例して組合員に分配したのである。つまり、協同組合と同じ機能を果たしたのである。

その後、昭和18年(1943)10月27日に保証責任牟礼塩業組合に組織変更し、さらに昭和25年(1950)2月には、中小企業等協同組合法施行によって牟礼塩業協同組合に改組、さらに塩業組合法施行により、牟礼塩業組合へと改組されたのである。

煎熬工場が、蒸気利用式から真空式へと変更したのは昭和25年(1950)7月4日のことであり、また流下式に転換したのは、昭和33年(1958)7月のことであった。その後、昭和34年11月から35年2月にかけて、塩業整備臨時措置法に基づき、組合の直営塩田と鹹水製造人のうち九名が鹹水製造を廃止すると共に、煎熬部門も廃止され、鹹水は日本化学塩業株式会社へ譲渡することになったのである。

その後、イオン交換膜法の実施にともない、昭和46年(1971)12月2日に鹹水製造廃止許可が申請され、12月6日付の許可を受けて15日に製造は廃止されたのである。こうして、翌年3月31日をもって牟礼塩業組合は解散したのである。

主要参考文献

  • 日本たばこ産業株式会社高松塩業センタ-編『塩業組合(会社)沿革史』(1995年)
  • 香川塩業組合連合会・愛媛県塩業組合連合会編『香川県愛媛県塩業組合(会社)沿革史資料』(1956年)
  • 日本専売公社編『第四次塩業整備事績報告』(1973年)

略年表

1、東讃塩業組合

1918年2月、東讃塩業購買組合が結成
1919年11月、産業組合法施行により、有限責任東讃塩業信用購買組合に改組
1926年、木太塩田株式会社が東讃塩業組合から脱退
1930年、牟礼塩田協同組合が東讃塩業組合から脱退
1935年5月、保証責任東讃塩業信用購買販売利用組合と改称
1943年11月、塩業組合法に基づき、東讃塩業組合に改組
1949年2月、中小企業等協同組合法により東讃塩業協同組合に改組
1951年12月、屋島塩業協同組合が組織
1952年4月、屋島塩業協同組合と高松塩業組合に分離(東讃塩業協同組合解散)

2、高松塩業組合

1952年4月、高松塩業協同組合が設立
1954年2月、塩業組合法により高松塩業組合(小豆島塩業協同組合が吸収合併)に改組
1954年~33年、流下式転換工事
1960年3月、塩業整備臨時措置法により、煎熬は日本化学塩業株式会社で実施
1972年3月、第四次塩業整備により高松塩業組合解散

3、屋島塩業組合

1951年12月、真空式製塩工場建設を契機に屋島塩業協同組合を組織
1954年3月、塩業組合法施行により屋島塩業組合に改組
1960年3月、塩業整備臨時措置法により、煎熬は日本化学塩業株式会社で実施
1972年3月、第四次塩業整備により屋島塩業組合解散

4、西野塩田株式会社

1920年7月、西野塩田株式会社設立
1940年2月、西野浜の全塩田が西野塩田株式会社所有
1950年9月、真空式工場完成
1953年~33年、流下式転換工事
1971年12月、第四次塩業整備により西野塩田株式会社解散

5、生島塩業組合

1948年3月、生島塩業組合結成
1949年9月、せんごう法人生島塩業株式会社設立
1950年、真空式製塩工場建設
1953年~1956年、流下式転換工事
1954年2月、塩業組合法により生島塩業組合改組
1955年1月、生島塩田組合事務所火災
1960年2月、塩業整備臨時措置法により、煎熬は日本化学塩業株式会社で実施
1971年12月、第四次塩業整備により生島塩業組合解散

6、高屋塩業組合

1948年8月、高屋製塩協同組合を設立
1948年12月、高屋製塩協同組合を解散、全員自作となり、保証責任高屋協同塩業組合を設立
1950年2月、中小企業等協同組合法施行により高屋塩業協同組合に改組
1952年8月、新興塩業協同組合の設立により煎熬廃止
1954年1月、塩業組合法により、高屋塩業組合に改組
1955年~32年、流下式転換工事
1972年1月、第四次塩業整備により高屋塩業組合解散

7、牟礼塩業組合

1891年2月、牟礼塩田同業組合設立
1919年、東讃塩業組合へ加入
1930年、牟礼塩業組合、東讃塩業組合から脱退
1938年7月、保証責任牟礼製塩工業組合設立
1943年10月、塩業組合法施行により保証責任牟礼塩業組合に改組
1950年2月、中小企業等協同組合法により牟礼塩業協同組合へ改組
1950年7月、煎熬工場、蒸気利用式から真空式へ転換
1954年1月、塩業組合法施行により牟礼塩業組合に改組
1958年7月、流下式転換工事
1959年~1960年、塩業整備臨時措置法にもとづき、煎熬は日本化学塩業株式会社で実施
1972年、第四次塩業整備により牟礼塩業組合解散

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